こんにちは!
全国各地のご朱印、お城印集めが趣味の神宮寺城一郎です!
12月と言えば? クリスマス?
それもあるけども、ここでは、12月と言えば「忠臣蔵」です!
ということで、前回の「赤穂大石神社」に引き続き、
今回は兵庫県赤穂市の「赤穂城」をご紹介します。
冬の風物詩といえる「忠臣蔵」、その概要と「忠臣蔵」にゆかりのある「赤穂城」を訪れた時の様子をご紹介します。
↓↓↓前回の「赤穂大石神社」をご覧になられていない方はこちらからご覧ください↓↓↓
目次
忠臣蔵とは
「忠臣蔵」とは、赤穂(現在の兵庫県赤穂市)の浪人こと「赤穂浪士」47人が主人の敵討ちをするという、史実としての「赤穂事件」が元になった物語です。
忠義や仁義といった日本の美徳を象徴する物語として、歌舞伎や文学、映画やドラマなど、さまざまな形で今なお語り継がれています。この作品で敵討ちがなされるのは12月14日。そのため12月の風物詩となっています。
発端は元禄14年(1701年)3月、江戸城中松の廊下で、浅野内匠頭長矩(あさのたくみのかみながのり)が吉良上野介義央(きらこうずけのすけよしなか)を切りつけるという事件が起きます。当時は喧嘩両成敗が基本であったところ、第5代将軍・徳川綱吉の独裁によって浅野内匠頭長矩は即日切腹、赤穂藩は取り潰しとなりました。一方で吉良家は一切罰されることはなかったのです。これが第一の事件。
そして元禄15年(1702年)12月14日、長矩の家臣である大石内蔵助良雄(おおいしくらのすけよしたか)を筆頭に、47人の赤穂浪士が吉良家への討入りに成功。吉良上野介義央の首を持ち帰り、見事な敵討ちをなすという事件が起こりました。
2ヶ月後の2月4日、赤穂浪士たちは切腹という処分を受けます。彼らは浅野内匠頭の墓の近くに埋葬されるのでした。これが第二の事件で、一連の物語が「忠臣蔵」です。
赤穂城との関係
赤穂城は「忠臣蔵」や「赤穂事件」を語る上で欠かせない場所です。事件の発端である刃傷沙汰を起こした浅野長矩は、赤穂城の歴代城主の一人です。赤穂城は常陸国笠間藩から国替えでやってきた浅野長直が寛文元年(1661年)に完成させたもので、浅野長矩は3代藩主です。刃傷沙汰により長矩は切腹を命じられ、浅野家は断絶。この出来事が赤穂藩士たちによる吉良邸討入りに繋がっていきます。
その後は永井家、次いで森家が城主となりました。森家は廃藩置県まで12代にわたり城主を務めました。現在の赤穂城では遺構の復元や修繕、歴史的資料の展示などが行われており、当時の人々の暮らしを垣間見えることができます。
赤穂藩士と歴代城主らが祀られている赤穂大石神社は同じ敷地内にあります。吉良邸討入りがなされたとされる12月14日は神社の例祭日であり、赤穂義士祭が盛大に開催されます。
実際に赤穂城を訪れて
前回紹介した赤穂大石神社は赤穂城の城郭内にある。
大石神社を参拝後、三の丸大手門から赤穂城跡に入りなおす。
【赤穂城跡 三の丸大手門】
大手門の手前には橋が架けられ、城へ入ろうと橋を渡っている途中に、隅櫓と土塀から攻撃を行えるように造られている。
橋を渡り大手門を通り抜け城跡に入る。
石垣の桝形を通って先に進むと「桝形の角の石垣が曲線で丸く」なっていた。
【赤穂城跡 曲線に延びる石垣】
これは見たことない桝形の角だ。
調べると、石垣の角部分は、外敵へ弓矢を射かける際、方向が限定されてしまうという側面がある。曲線を描く石垣にすることで、どこに石垣の角があるのか困惑させると同時に、攻撃の際に、放射状に弓矢や鉄砲を射かけることができるようにしているとのこと。
甲賀流軍学によるものらしい。
赤穂城では、随所に曲線を描く石垣がある。
先に進むと右手に「大石邸の長屋門」があった。
【赤穂城跡 大石邸長屋門】
大石内蔵助の一家三代が57年にわたり住んでいた大石屋敷において、唯一現存しているのが正面門長屋である。
内蔵助と主税の親子もここから出入りしていた。主君の刀傷事件の一報を伝えたとされるのがこの大石邸だ。国の史跡にも指定されている。
また、近くには近藤源八亭長屋門と家屋も残っているので、見学する事が出来る。
先へ進んで「二の丸」に向かう。
二の丸庭園前に「山鹿素行の胸像」があった。
【赤穂城跡 山鹿素行の胸像】
山鹿素行は兵学者・儒学者であり、赤穂藩江戸屋敷に仕えていた。
承応2年(1654年)には赤穂城築城に携わり、家中に兵法指南をしている。のちに著書『聖教要録』にて、江戸幕府が奨励していた朱子学を批判したことで赤穂まで配流される。
配流中は赤穂城二の丸内の家老屋敷に住み、藩主や家臣たちのもてなしを受けたという。
本丸門から本丸跡に入る。
【赤穂城跡 本丸門】
赤穂城の表玄関となる本丸門。
本丸門は、発掘調査成果や絵図、古写真等を資料をもとに平成4~8年(1992~1996)にかけて復元されている。
また、本丸門を潜ると櫓門と土塀で三方向を囲まれ袋の鼠状態になる。まさに鉄壁の守りだ。
「本丸跡」を見てまわる。
【赤穂城跡 本丸】
11月に訪れたこともあり、紅葉がとてもきれいだ。
本丸跡は本丸御殿(表御殿・奥御殿)の間取りが地面に示されている。また、設置されている案内板には、当時の絵図が描かれ本丸の面積なども記されていた。
南東部にある「天守台」に登ってみる。
【赤穂城跡 天守台】
赤穂城には天守台があるのみで、天守は築かれなかった。この石垣は城内で最も高く、その高さは9m。
赤穂城が築かれた当時、城郭とは防備の拠点ではなく経済の拠点という役割になっていたからだ。当時の赤穂は製塩業が活発化しはじめた頃で、近隣地域から技術者を移住させていた。
当時の藩主はこの天守台から着々と開拓されていく塩田を眺めたことだろう。
【赤穂城跡 本丸庭園】
本丸庭園は本丸内に造られた庭園で、池泉を中心として「御殿南面の大池泉」「中奥坪庭の小池泉」「本丸北西隅の池泉」がある。庭園は大きくはないが美しい造りとなっている。
二之丸庭園とともに「旧赤穂城庭園」として国名勝に指定されている。
「本丸門の櫓の中が公開」されているというので、上がってみる。
【赤穂城跡 本丸門の櫓の中】
本丸門の櫓の中は、資料館になっていた。
赤穂城は、1600年代半ばに入封した浅野長直が13年かけて完成させた城だ。長直のあと長友が継ぎ、三代目の長矩(ながのり)に継がれたが、その長矩が刃傷事件を起こしてしまい、赤穂浅野家は断絶となる。その後、永井氏、森氏が藩主となり森氏が12代にわたり藩主を勤めている。
浅野氏といえば、広島城も浅野氏だ。広島と赤穂の浅野氏の関係を調べてみる。
浅野氏は尾張出身。秀吉の妻おねが浅野家に養子でいたことから浅野長政と秀吉は姻戚関係となった。長政は秀吉のもとで出世し、近江・若狭の領主となり、豊臣政権下で五奉行の一人となっている。長政の子・幸長は朝鮮出兵の帰国後、石田三成と激しく対立。関ケ原では東軍についている。
幸長のあと家督を継いだ次弟の長晟(ながあきら)は安芸広島の初代藩主となっている。この安芸浅野家が浅野家宗家。さて、赤穂浅野家だが、浅野長政の三男で幸長・長晟の弟長重(ながしげ)の長子が赤穂城を築城した浅野長直。だから広島初代藩主の浅野長晟はおじさんだ。
忠臣蔵の大石内蔵助の妻りくは、討ち入りのあと、浅野家の縁で子らとともに安芸浅野家に移り住んでいる。浅野宗家は赤穂浅野家の忠臣であった大石内蔵助の遺族に対し優しかったんだ。その後、広島の浅野宗家は12代にわたり版籍奉還までの250年間、広島の城主を勤めている。
浅野家と忠臣蔵に思いをはせながら赤穂城をあとにする。
赤穂城の御城印
事前に、赤穂城の御城印は現地で販売されてなく、JR播州赤穂駅の観光情報センターで販売されているという情報を得ていたので、赤穂城の訪問前に、赤穂駅に行く。
播州赤穂駅の2階に上がると、大きな「忠臣蔵」という書の額があった。「忠臣蔵」は赤穂のシンボルなのだ。
観光情報センターは2階にあった。入ると、すぐ右のレジに御城印があった。
1枚300円。
討ち入りの際の法被の柄を模した御城印だ。
12月14日の赤穂義士祭りのポスターが大きく貼られていた。
赤穂城のアクセスと基本情報
【赤穂城の所在地】
〒678-0235
兵庫県赤穂市上仮屋1番地
【赤穂城の電話番号】
【赤穂城の開園時間】
本丸以外は無休
本丸は9:00~16:30(入園は16:00まで)
本丸・二之丸庭園以外は無休
本丸・二之丸庭園は年末年始 12月28日~1月4日休園
【赤穂城へ電車でのアクセス】
JR赤穂線「播州赤穂駅」にて下車、徒歩15分
山陽新幹線「相生駅」より車で20分
【赤穂城へ車でのアクセス】
山陽自動車道赤穂ICより車で10分
最後に赤穂城にぴったりの御城印帳をご紹介
今回ご紹介する御城印帳は本文への差し込み式が特徴!
さらに、黒色の紙が御城印をいっそう引き立てます!
御城印がカッコよく見えるという口コミから多くの方が注文されています!!!
気になる方は早めにご注文ください〜^^
日宝綜合製本では可愛い御朱印帳から箔押しのカッコいい御朱印帳まで様々なデザインの御朱印帳を販売しています。
是非ともAmazon又は楽天市場にてご検討ください^^
日宝の様々な御朱印帳は下記のボタンからご覧いただけます!
さらに!さらに!!
「日宝はオリジナルの御朱印帳」も製作可能です。
お寺、神社のオリジナル御朱印帳の製作はもちろん、デザインや表紙素材のご提案も可能です!
現在、オリジナル御朱印帳のご検討をされている方はご相談だけでも構いませんのでお気軽にお問い合わせください〜^^
ご興味がある方は下記のページをクリック♫
日宝綜合製本株式会社
岡山県岡山市中区今在家197-1(各所在地を見る)