こんにちは!
全国各地のご朱印、お城印集めが趣味の神宮寺城一郎です!
滋賀と京都の有名な神社仏閣を連続してご紹介しています!
ここまで紫式部が『源氏物語』の着想を得たという石山寺、そしてそこで開催されている「光る君へ びわ湖大津 大河ドラマ館」と「恋するもののあはれ展」をご紹介しました。
三回目となる今回は、紫式部とも縁が深い「三井寺」をご紹介します!
紫式部の父や親戚が僧侶となった、とてもゆかりのあるお寺です。2024年現在、紫式部ゆかりの品を公開する特別な展示も開催中!
この機会にぜひ訪れてほしいお寺となっています。
また終盤では三井寺でいただける14種類全ての御朱印を紹介してますので是非ご覧ください。
目次
三井寺のアクセスと基本情報
【三井寺の所在地】
〒520-0036 滋賀県大津市園城寺町246
【三井寺の電話番号】
【三井寺の拝観時間】
8:00 ~ 17:00(受付終了16:30)
【三井寺の入山料】
大人600円・中高生:300円・小学生:200円
【三井寺の御朱印受付時間】
午前8:00〜午後4:00
【三井寺へ電車でのアクセス】
京阪石山坂本線「三井寺駅」より徒歩7分
京阪石山坂本線「大津市役所前駅」より徒歩12分
【三井寺へバスでのアクセス】
JR東海道本線(琵琶湖線)「大津駅」またはJR湖西線「大津京駅」より 京阪バス三井寺下車すぐ
【三井寺へ車でのアクセス】
名神高速道路 大津I.Cより 湖岸道路経由約10分
国道1号線より 国道16号線経由約10分
※カーナビで電話番号検索する場合は、駐車場内レストラン「れすとらん風月」TEL 077-524-0638 でセットをお願いいたします。
【三井寺の駐車場】
普通車500円
三井寺のご由緒
園城寺(三井寺)は天台寺門宗の総本山で、古くから日本四箇大寺の一つに数えられています。
天智・弘文・天武天皇の勅願により、弘文天皇の皇子・大友与多王が田園城邑を投じて建立され、天武天皇より「園城(おんじょう)」の勅額を賜り、「長等山園城寺」と称したのにはじまります。
俗に「三井寺」と呼ばれるのは、天智・天武・持統天皇の産湯に用いられた霊泉があり、「御井(みい)の寺」と呼ばれていたことが由来です。
長い歴史の中で再三の兵火にあい焼失しましたが、豊臣氏や徳川氏の尽力で再興され、現在も国宝・重要文化財など貴重な寺宝を数多く伝えています。度重なる苦難を乗り越えてきた姿から「不死身の寺」「不死鳥の寺」としても知られています。
実際に三井寺へ訪れて
石山寺をあとにし、三井寺に向かう。ここもまた紫式部ゆかりの地だ。
石山寺駅から三井寺駅までは、京阪石山坂線で1本だ。
乗車時間は20分くらい
料金は片道240円
と早くて安く移動できるのでおすすめの移動手段だ。
三井寺駅を降りてすぐの交差点には「←三井寺0.5km」の案内あり。
そんなに遠くなさそうだ。
県道47号線を進むと10分くらいで参道に着いた。
【三井寺の入口(駐車場入口)】
こちらから三井寺に入ることができる。ちなみに駐車場もこちらから入れる。
駐車場はとても大きく普通車は350台程駐車が可能となっている。
入口には大きな看板があった。
看板には「桜」「緑」「紅葉」「雪景色」の写真があり、四季折々の表情が楽しめるお寺となっていることが分かる。
また、駐車場入り口に
入口から境内に入って進むと、重要文化財の「大門(仁王門)」がある。
【三井寺の大門(仁王門)】 重要文化財
この大門(仁王門)は宝徳4年(1452年)に建立され、表門として慶長6年(1601年)、徳川家康により甲賀の常楽寺より移築、寄進されたもの。
門の両脇には康正3年(1457)に制作されたとても大きな金剛力士像が安置されている。
ちなみに仁王門の表面が白くなっているのは風化から白くなっている。
仁王門の手前の大きな石には「園城寺」(おんじょうじ)と書いてあった。
実は三井寺の正式名称は園城寺なのだ。
【三井寺の寺標】
《園城寺ではなく三井寺と言われるのか?》
では、なぜ園城寺ではなく三井寺と言われるのかというと、天智天皇、天武天皇、持統天皇が誕生のときに産湯をつかった霊泉があることから「御井の寺」といわれ、そこから三井寺と呼ばれるようになったという。
だから読み方は「みついでら」ではなく「みいでら」なのだ。
仁王門の横には「大河ドラマ『光る君へ』放映記念 紫式部と三井寺」というタペストリーがあった。
【三井寺の紫式部と三井寺タペストリー】
紫式部と縁がある三井寺でも記念の企画展示を期間限定で行なっている。
会場は本堂である金堂だ。
【三井寺の境内案内図】
三井寺の参拝案内図があった。
参拝案内図をご覧いただければお分かりになるが、三井寺はかなり広い。
仁王門の横から入山料を払い(大人:600円)先に進む。
ここで、御朱印の案内もあったが、御朱印の数がとても多く迷ってしまいそうだった。
ひとまずは金堂を目指そう。最初に、その手前の「釈迦堂」におまいりする。
【三井寺の釈迦堂】重要文化財
釈迦堂は室町初期の建築で、仁王門から入ってすぐ右手にあり、先ほどの境内案内図には「食堂」と書かれていた。その理由として、昔は食堂として使われていたが現在は清涼寺式釈迦如来像を本尊とする釈迦堂として信仰されているそうだ。
先に進むとすぐに「手水舎」があるので手を浄める。
【三井寺の手水舎】
三井寺の手水舎は一見変わっていて、龍が檻に入れられているような造りとなっていた。
檻に入れられている理由の記載はなかったので
「龍が暴れないように?」「龍が逃げないように?」
と想像しながら金堂に向かう石段を上がる。
【三井寺の金堂に向かう参道】
参道もとてもしっかりと手入れされ、とても綺麗だった。
また、参拝を行ったのが5月だったがこの季節ならではの青紅葉の美しさがあった。紅葉の季節はもちろん、春に訪れても美しそうだ。
階段を登ると国宝の「金堂」が姿を現す。
【三井寺の金堂】国宝
こちらの金堂は三井寺の総本堂。
本尊の弥勒仏は天智天皇が信仰されており、後白河法皇はじめ歴代の天皇や源頼朝、足利尊氏、徳川家康など武将からも信仰を集めてきた。
7世紀に創建以来、焼失と再建を繰り返してきたが、現在の金堂は、豊臣秀吉の正室の北政所(おね)によって慶長4年(1599年)に再建されたものとのこと。国宝に指定されている。
さて金堂のお堂に入る。
堂内は撮影禁止。
堂内で御朱印はいただける。三井寺ではいくつものお堂で御朱印をいただけるが、この金堂でいただくことにした。「弥勒仏」のご朱印をいただく。
御朱印の初穂料は500円。
いただいた御朱印の紹介は後ほど。
金堂の堂内には、たくさんの重要文化財に認定された仏像があった。
また、紫式部ゆかりの展示もあり、展示されている品は初公開となっている。もちろん、令和6年大河ドラマ「光る君へ」放映を記念したものだ。
前期:2024年1月29日~2024年7月31日
後期:2024年10月1日~2025年1月31日
《三井寺と紫式部の関係は?》
さて、この三井寺と紫式部はどのような縁があるのか。まずは、紫式部の母の兄弟、つまり紫式部のおじさんたちが三井寺の僧侶になっていた。加えて式部の異母兄弟も三井寺の僧侶になっている。
次に、紫式部の父藤原為時が出家して三井寺の僧侶になっている。式部の没年は諸説あるが、長和3年(1014年)というのが有力らしいが、先日の石山寺のブログに書いた式部の生年が天延元年説(973年)とすると41歳で亡くなったことになる。娘に先立たれた為時は失意のなか三井寺で出家したのだろう。ということで、紫式部の周囲の人が何人もこの三井寺で僧侶となっている。
話を戻して、金堂向かって右手には「鐘楼」がある。
【三井寺の鐘楼(三井晩鐘)】 重要文化財
慶長7年(1602年)の再建。
梵鐘は近江八景「三井の晩鐘」で知られる。
宇治の平等院、高雄の神護寺と共に日本三銘鐘に数えられる。
実際に鐘を突くことができるが、最寄りの売店で800円支払いが必要である。
とても良い響きが聞けるとのこと。
そして金堂向かって左側手には「閼伽井屋」がある。
【三井寺の閼伽井屋(三井の霊泉)】 重要文化財
「閼伽(あか)」とは仏に供える水のことで、屋内の岩組から湧き出る霊泉は、天智・天武・持統天皇が産湯に用いたと伝えられている。
霊泉の履屋として慶長5年(1600年)に建てられたのが閼伽井屋。
正面上部には左甚五郎作の龍の彫刻がある。この龍が夜ごと琵琶湖に出ては暴れたので、甚五郎自ら龍の目玉に五寸釘を打ち込んで鎮めたという伝説が残されている。
今も「こぽこぽこぽ」と音を立て、ここから湧き出る霊泉が三井寺の由来となっている。
閼伽井屋の近くに「霊鐘堂」があった。
【三井寺の霊鐘堂(弁慶の引き摺り鐘)】 重要文化財
奈良時代の梵鐘で、俵藤太秀郷が三上山の百足退治のお礼に竜宮から持ち帰ったと伝えられている。
武蔵坊弁慶が三井寺から奪って比叡山へ引き摺り上げたという有名な説話で知られ、一般に「弁慶の引き摺り鐘」と呼ばれています。
武蔵坊弁慶が引き摺った跡や傷が残ってると案内板には書かれている。
ここまで大きく重たそうな鐘を本当に引き摺れるのだろうか・・・
霊鐘堂の奥にある「一切経蔵」へ向かう。
【三井寺の一切経蔵】 重要文化財
一切経蔵は室町初期の建築で、慶長7年(1602年)、戦国大名・毛利輝元により山口県・国清寺より移築、寄進された。
堂内には高麗版一切経を納める回転式の八角輪蔵があり、天井や梁の一部には天井画や彩色が残っていた。三井寺唯一の禅宗様建築となっている。
そして、一切経蔵向かって左手に高くそびえる「三重塔」が見える。
【三井寺の唐院 三重塔】 重要文化財
この三重塔は慶長6年(1601年)に徳川家康が寄進した。
もとは奈良県吉野の比蘇寺(現在の世尊寺)の東塔で室町初期の建築とのこと。
豊臣秀吉が伏見城に移していたものを再び移築した。高さは約25m。
伝統的な和様三手先ですが、二重と三重目の窓には珍しい菱格子が入っている。
【三井寺の唐院 潅頂堂】 重要文化財
寺流の密教を伝承する道場。大師堂の拝殿としての役割を備える。内部は前後二室に分かれ、密教儀式が執り行われる。
【三井寺の唐院 四脚門】 重要文化財
唐院は正面に土塀をめぐらせた区域に四脚門を建て、西側の山手に向かって潅頂堂、唐門、大師堂が一直線上に並んでいる。
四脚門は聖域への入口として清浄な雰囲気をかもしだしている。
弁慶鐘、一切経蔵、三重塔を見て、唐院四脚門を抜ける。
今回、私が通ったルートは唐院を裏から入った形になった。
三井寺は天台宗寺門派総本山であるが、この寺門派は第五代天台座主の円珍を開祖としている。一方、天台宗の総本山である延暦寺は山門派と呼ばれた。
天台宗の教えに対する考え方の違いから、円珍の弟子たちが延暦寺から独立したのだ。その弟子たちが円珍を敬って建てたのが大師堂、潅頂堂、三重塔で、これらを合わせて唐院と呼ばれる。
この山門派と寺門派の対立は、のちには、平家の山門派、源氏の寺門派という源平の争いにも、また、南北朝時代の三井寺合戦は、延暦寺を拠点とする天皇方の新田義貞と三井寺を拠点とする足利軍の戦いで三井寺は炎上している。
また織田信長は延暦寺焼き討ちに際しては、三井寺を拠点にしたといったように対立をした戦いの舞台となった歴史がある。こうして三井寺は再三、政争の場となり何度も炎上しているが、復活もしている。そうした三井寺は「不死身の寺」とも呼ばれた。
【三井寺の村雲橋】
村雲橋はその昔、智証大師が橋を渡ろうとした時、西の空を見上げ長安の青竜寺が焼けていることを感知し、真言を唱え橋の上から閼伽水をまくと橋の下から一条の雲が湧き起り、 西に飛び去ったとされている。
その後、青竜寺からは火災を鎮めていただいた礼状が送られてきたといい、 以来、この橋をムラカリタツクモの橋、村雲橋と呼ぶようになったと伝わっている。
村雲橋を渡り正面に見える「微妙寺」に向かう。
【三井寺の微妙寺】
微妙寺は、特に門や塀で囲われている訳ではないので三井寺の中の一つのお堂のように見えるが三井寺の五別所のひとつ。
本尊は十一面観音(重要文化財)で、現在は湖国十一面観音霊場の第一番札所となっている。
堂内では朱印所にて「気不動尊」の御朱印をいただける。
微妙寺の近くに、三井寺名物の弁慶力餅が食べられる茶屋「本家力軒」があった。
【三井寺の茶屋「本家力軒」】
三井寺の中にあるこの茶屋1店舗のみで、山門派に奪われた鐘を武蔵坊弁慶が引き摺ったという伝説がこの餅のいわれだ。
石山寺もそうだったが、三井寺の新緑のもみじが気持ちいい。グリーンシャワーがパワーを与えてくれているようだ。また、5月は暑すぎることも、寒すぎることもないので、ゆっくりと心穏やかに参拝できる良さを実感した。
美しい景色を見ながら先に進むと重要文化財の「毘沙門堂」が見えてきた。
【三井寺の毘沙門堂】 重要文化財
元和2年(1616年)の建立で、極彩色に荘厳された優美な建築。
もともと五別所のひとつ尾蔵寺の南勝坊境内にあったが、明治以降に三尾社の下に移築され、さらに戦後、現在地に移された。
平成元年(1989)には建物に施されていた彩色が復元され、創建当初の美しい姿に戻っている。
毘沙門堂の近くに「十八明神社」がある。
【三井寺の十八明神社】
十八明神社は別名「ねずみの宮さん」と呼ばれている。
その由来は『太平記』にのこされた頼豪阿闍梨の逸話に由来する。
かつて頼豪阿闍梨という高僧に、皇子降誕を祈誓するよう勅命が下る。頼豪の祈祷によりまもなく皇子が誕生する。頼豪は戒壇道場建立の勅許を得た。ところが、比叡山の横暴な訴えにより、勅許が取り消されてしまう。
これを怒った頼豪の強念が、八万四千のねずみとなって比叡山へ押し寄せた。ねずみは堂塔や仏像経巻を喰い荒らしてしまった。
この社は、この時のねずみの霊を祀っている。よって比叡山の方向=北向きに建っているとも伝えられる。
毘沙門堂、十八明神社の前を通り、観音堂に通じる石段に着く。
お気づきだとは思うが、三井寺の境内はけっこう広い。
石段を登るとすぐ左手に「百体観音堂」がある。
【三井寺の百体観音堂】
堂内の正面中央に三井寺観音堂の本尊と同じ如意輪観音像を奉安し、その左右に西国礼所の三十三観音像を二段に祀っている。右には坂東三十三箇所、左には秩父三十四箇所の本尊を安置。
(33+33+34=100ということで)合わせて百体の観音像を安置することから百体堂と呼ばれる。
そして隣には「観月舞台」があった。
【三井寺の観月舞台】 県指定文化財
謡曲「三井寺」は観音の加護による仏法の尊さを、湖水を渡る鐘の音に月を配してつくられた詩情豊かな曲として名高い。
観月舞台は懸造だ。石山寺もこの三井寺においても、月を愛でることにこの上ない喜びを感じていたのだろう。
また、春の特別公開2024(2024年3月22日(金)〜4月14日(日))では、1組最大6名様まで2,500円(5分)で観月舞台から桜を見ることができる。
観月舞台向かって反対側には変わったつくりの観音堂の「手水舎」がある。
【三井寺の手水舎(観音堂)】
こちらの手水舎は六角屋根で、花を模った形の水口で、花びらの間から水が流れていた。
再度手を清め観音堂に向かう。
【三井寺の観音堂】 県指定重要文化財
西国三十三所観音霊場の第十四番札所。本尊は如意輪観音で、三十三年ごとに開扉される秘仏。
また、観音堂は南院札所伽藍の中心建築で、後三条天皇の病気平癒を祈願して延久四年(1072年)に創建されたと伝えます。その後、現在地への移築と焼失を経て、元禄二年(1689年)に再建されました。
琵琶湖と大津市街を一望する景勝地で古くから親しまれている。
観音堂を後にし階段を降ったところに「水観寺」がある。
【三井寺の水観寺】 県指定重要文化財
三井寺の五別所のひとつで本尊は薬師如来。
現在は西国薬師霊場の第四十八番札所。
決して派手ではないが、重厚な存在感がある三井寺の最後に相応しい寺となっている。
水観寺を見て、三井寺をひと通り見たことになる。
「不死身の寺」三井寺は日本の歴史にしばしば登場する。歴史好きな人にはたまらないお寺かもしれない。
では、三井寺の御朱印をご紹介していく。
三井寺の14種類の御朱印
三井寺の御朱印はとても数が多くその数はなんと14種類もある。
仁王門近くの拝観受付で14種類の御朱印を一覧を見ることができる。
【三井寺の仁王門近くの拝観受付】
上記の案内のように三井寺では6箇所、14種類の御朱印がいただける。
では全ての御朱印を紹介する。
《①釈迦堂でいただける御朱印》
三井寺の釈迦如来の御朱印
三井寺の大友皇子の御朱印
三井寺の鬼子母神の御朱印
《②三井の晩鐘(熱経所)でいただける御朱印》
三井寺の三井晩鐘の御朱印
《③金堂でいただける御朱印》
三井寺の弥勒佛の御朱印
三井寺の円空佛の御朱印
《④微妙寺でいただける御朱印》
三井寺の十一面観音の御朱印
三井寺の黄不動尊の御朱印
三井寺の尊星王の御朱印
《⑤観音堂でいただける御朱印》
三井寺の如意輪観音の御朱印
《⑥水観寺でいただける御朱印》
三井寺の薬師如来の御朱印
三井寺の弁財天の御朱印
三井寺の大黒天の御朱印
三井寺の毘沙門天の御朱印
今回いただいたのは金堂「弥勒仏」の御朱印だ。
志納料は500円。
以上が三井寺の紹介だ。
三井寺はとても広く見どころが沢山あるお寺だった。また、四季折々で違った景色が楽しめるお寺となっている。
滋賀県に行かれた際には是非とも足を運んでみてください。
最後に三井寺にぴったりの御朱印帳をご紹介
今回は、日宝でも人気が高くて『源氏物語』の世界観にぴったりな「金扇御車柄」の御朱印帳をご紹介します!
金扇御車柄の御朱印帳は「扇」と「御所車」が豪華に描かれた柄です。
ゴールドを基調とした絢爛な一冊は、見るだけで華やかな気分に。
描かれている世界観も紫式部が過ごした時代とマッチしています。
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